ゆめのブログ

30代女の独身生活ブログ

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結婚40年目の答え合わせ。私の両親を見て初めて「結婚ていいかも」と思った日


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驚いた。この私が「あ、夫婦っていいかも」と思う日が来た。

生まれてから今日まで、一瞬たりとも「結婚したい」と思ったことがない。



 

私の結婚観

中学2年生の夏、進路面談を終えて母と二人で家に帰る道すがら母は私に言った。「ひとりでも、ひとりになっても生きていける人になりなさい」と。

その日から私は「結婚しない人生」を歩み続けてきたのだ。

高校3年の春、受験勉強に専念するため飲食店のアルバイトを辞めた日のこと。「私は薬剤師になります、結婚しなくても生きていきたいから」と聞かれもしない宣言をした。

大学を卒業する日、私は「これで一人で生きていかれる」と確信した。国家試験に合格できる自信があった。

大学院の在学中に付き合っていた恋人が「君は世間なんて知らなくていい、僕と一緒に地元へ帰って結婚しよう」と言った。私は「私に人生の伴侶は必要ない、とにかく働いて独りで生きていきたい」と叫ぶように答え、文字通り五反田の駅で走って逃げた。

就職して4年め。出会った男性に「結婚を見据えてお付き合いしてください」と言っていただき、「え?なんですって?」とおどけて見せ、私はこっそりと姿を消した。

1年前に付き合っていた彼はバツイチ、15歳年上で仕事をバリバリこなしていた。「結婚にはこだわらない」という彼の言葉に惑わされ、付き合った。それでも別れ話の締めくくりは「このままいつか結婚出来たらいいな、と思っていたのに」と言われ、背筋が凍った。やっぱり嫌だった。

 

身近な結婚の先輩(両親)が歩んできた道のり

私がこんなにも「独身至上主義者」になり、「結婚不適合者」として生き続けることにこだわる理由がある。それは、私の両親である。

私の両親はお見合い結婚。昭和30年代生まれで、結婚したのは昭和50年代後半。この頃はまだまだお見合い結婚が横行しており、「結婚しない女」は「売れ残りのクリスマスケーキ」だったのだ。

全く失礼な話しではあるが、それが時代のトレンドで多くの大人が持つ「価値観」であった。そんな時代の真っただ中、両親はお見合いをして結婚した。

母は、元カレが忘れられずにふて腐った状態で「皆がどうしても結婚してほしいというのなら、勝手にしてくれ。私の人生はもうどうでもよい。」と投げやりになっていたらしい。

一方の父は大した恋愛経験もなく、勉学に励み大学を卒業した。実家の田舎コミュニティになじめず、必死で実家から離れる方法を考えていた。

母も父もとにかく実家から離れたかった。「結婚」は十分な理由だった。

そんなふたりには私と妹が生まれ、子育てに追われた。仕事、育児、仕事、育児、育児。二人の娘を大学へ進学させるという大きな目的に向かって走るパートナーとなった。

父は仕事に追われメンタルを崩しかけ、休職した時期もある。この頃の夫婦仲は最悪だった。子どもながらも覚えている。二人は「子育てと仕事の責任」に阻まれ、お互いのことを観ていなかった。話もせず、母はママ友と遊びまくり父は仕事で家にはほとんど帰ってこない。

当然、母は父へ期待していた。「娘と妻に優しい夫であってほしい」と。父は母からの期待をうっとおしく感じていた。だから父はほとんど話をしなかった。家ではもっぱら無口であった。

私たち娘が大学進学のために家を出てからは二人きりの時間が必然的に増えた。私が生まれてから18年間、子どもについての話しかしてこなかった両親は、私たち娘が家を出てからどんな会話をしたのだろうか。

ふたりの思い出話しによれば、毎晩の「ドラマ24」を観ていたらしい。夜な夜なリビングに集合して二人で無言で観ていた、と。半年ごとに数百万円もの学費を払わなくてはいけない。とにかくお金を貯めなければならない。無駄なお金は使えない。

稼ぐしかなかった。夫婦が最大限の力を発揮して仕事に励んだ。

そして娘は2人とも大学を卒業する。地方出張や海外出張が多い父、ひとり時間を愉しめるようになった母。夫婦はソロ活を極めて行った。

そして定年が目前になった。

自分のペースで生活してきた二人。まったく干渉しあわない二人がひとつ屋根の下で過ごす時間が増える。これはもう、軋轢が生まれるしかない。

4年前、父は定年退職をした。二人は24時間同じ家に暮らし始めた。大きさの違う車輪で道を進んでいるような状況だった。ちぐはぐだった。

家事をしない父、そんな父に腹を立てる母。子育てを終えた両親は、何を話せばいいのか分からない様子だ。この頃、両親の会話はかみ合わなかった。当然だ。

孫の誕生

父が定年退職して3年め。次女(私の妹)に子供が生まれた。両親に孫ができたのだ。そして妹は実家に帰ってきては両親に子どもの世話を頼むことがあった。

祖父母となった両親は36年前の私の育児を思い出しながら必死で孫の世話をした。

しかし、36年前とは違っていた。

この頃の父は毎日私と母の食事の支度をしてくれるようになっていた。焼き魚、野菜炒めなど簡単なものではあるが、毎日のことだ。その労力は計り知れない。

実家暮らしのクズ女(私)にしてみればこんなにラッキーなことはない。「ありがと~!」なんて言いながら、当たり前のように毎晩夕食を頂いていた私だった。しかし母は違った。「毎日食事の支度をするって大変よね、お父さんありがとう」と言うようになった。

母はパートの仕事を続けている。

つまり、母が働き、父が食事の支度をするという状況になっていたのだ。父は孫の世話をしながら、私たち女たちの食事の支度を続けた。

孫が風呂に入ると言えば、母が一緒に孫と風呂に入り、父が風呂場へ迎えに行く。当たり前のようにその作業は行われた。まるで示し合わせたかのように、自然と二人は協力し合っていた。

両親(祖父母)の死去

昨年、父の母(私にとっての祖母)が亡くなった。今年春、母の父(私にとっての祖父)が亡くなった。私の両親は、二人とも親を看取ったのだ。

そして私の両親は本物の「祖父母」のフェーズに入ったのだ。この頃からだろう。私の両親はあ・うんの呼吸で生活するようになる。

遺産相続についてはお互い一切干渉しない。お互いの実家のことについては口を出さないという暗黙のルールあるようだ。

そのルールをふたりは自然と守っている。

孫の世話は二人で行う。二人の子どもだと自覚しているようだ。その価値観は今も変わっていなかった。

結婚して40年

私の両親は今、最強に強い絆を礎に、程よい距離感で生活している。1日に数分しか会話をしない日もあるようだ。私が食卓に居れば会話は弾むが、二人だけだと会話はあまりないらしい。それでも二人は居心地がいいらしい。

老後の資産は十分にあるという、父が働き母が家計管理をし続けてきた。40年間も。その結果、私たち娘は大学を卒業した。そして、実家の戸建て一軒家を一括キャッシュで立て直した。

借金はない。

彼らに今後の生活への金銭的な不安はないという。

結婚して40年。二人は今、安寧の精神状態を手に入れている。紆余曲折あったおかげで、両親は本物の夫婦になった。

40年経ってやっとちょうどよい距離感をつかむことができたようだ。

結婚の答え合わせに40年もの時間を要した。長いようで短い時間だったという。そして私の心にも変化が訪れた。

36年間、結婚したくないと思っていたのは「仲の良い両親」を知らなかったからだ。私は勝手に「仲の良い夫婦=コミュニケーションが取れている夫婦」だと思い込んでいた。

私の両親は「お見合い結婚」だから、恋愛感情などない。だから彼らはいつもお互いに対してドライなのだ、お互いに何の期待もしていないのだ。彼らは「しかたなく一緒にいるのだ」と思っていた。

私は未熟だった。まったく気づいていなかった。両親が共に人生の山も谷も超えていたことを。今、私は両親がキッチンに立つ姿を見て思う。

性格は全く違うまま40年を過ごしてきた。育児という大きな目標を達成しながら慎ましく生きてきた。

私は二人を見て思った。あぁ、結婚してこの両親のようになれるのなら…結婚もいいかも知れない、と。36年間生きてきて、初めての感覚だった。

 

 

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