【流浪の月】の感想。人は居心地の良い場所で生きる、それがたとえ歪なカタチだったとしても…
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凪良ゆう著、【流浪の月】を読み終えました。
4時間で一気読みしてしましました。
凪良先生の世界観は私の感覚に合っているようです。
率直な感想
シロクマが北極に生息していることを批判する人はいない
この言葉を思い出しました。
何のことを言っているのだ?
…そう思う方もいらっしゃると思います。
要は、
「生物が生きやすい環境に住んでいることを批判したり揶揄することは無意味だ」
と言いたいのです。
シロクマは極寒の北極に住んでいるのは、
「シロクマにとって住みやすい環境であるから」と言うだけであって、
我々人間からしたら
「なんであんな寒いところに住むのだろう」なんて思うのは、
全く無意味でナンセンスな発想なのです。
しかし人間は「一般常識」とか「倫理観」のもとに生きていますから、
この概念から外れた価値観の持ち主を批判したり排除する傾向があるのです。
そんな世界で生きる人間のなかにも、
北極のような人間社会からハズれた世界で生きる人たちがいます。
本作【流浪の月】は歪な場所を選ばざるを得なくなった人たちのお話でした。
あらすじ
主人公は更紗という女性と、文(ふみ)と言う名の男性。
それぞれ、過去に傷を負った人物たち。
更紗は、従弟からの性的虐待(いじめ)という過去を持っている。
文は二次性徴不全という個性の持ち主で、
それゆえに女性を性の対象として見ることができない。
この二人が、ある日運命に引き寄せられるように共同生活を送ることになる。
ふたりはそれまで抑圧されてきた生活からお互いを解放しあい、
穏やかな時間を過ごすのだが、
世間では「9歳の女児を19歳の男子大学生誘拐する事件」とされてしまう。
この誘拐事件から、ふたりは常に好奇の目にさらされる人生を歩み続ける。
ふたりの過去
更紗の過去やそれに伴う性格の変化については、何となく私も理解できます。
もちろん当事者の心の傷の程度や辛さを完全に理解することは不可能で、
虐待により子供らしさを捨て身を守る術を獲得してしまう過程は想像できる、
というくらいではありますが。
しかし、文の個性については私は全く想像ができませんでした、
二次性徴が起こらない不安感や、
両親から見捨てられてしまうかもという恐怖感を感じていたと描かれていますが、
私には全く分からないのです。
女性と男性が一緒に居たら、その関係をカテゴリー分類しなくてはならないのか?
常日頃から私はそう考えています。
ですから、文が女性を性的に愛せないことは、人間として欠陥になるのだろうか…?と思うのです。
容姿端麗とか、頭脳明晰とか、芸術的センスがある、とか
その類の個性ではないでしょうか。
しかし本作の中で文本人は相当真剣に悩み苦しんでいたのです。
歪でも異物ではない
誘拐犯とされた文と誘拐被害者をされた更紗は
大人になって再会し、ともに人生を歩んでいくことになります。
この関係は恋人でもなく、ビジネスパートナーでもなく、
家族でもなく、友人でもありません。
明確な名前のない関係。
世間的には異常な組み合わせだと批判もありますが、
世間から何をどう言われようと、
ふたりにとっては居心地の良い関係であり、
ふたりは一緒に生きていくことを選んで生きていきます。
なんて素晴らしいのでしょう。
私自身はこういう価値観が大好きです。
人がどう思おうと「自分の居場所自分で選ぶ」ことを優先し実行している。
更紗と文の関係はちょっと歪かも知れないが、決して異物ではないと思うのです。
確かに、誘拐犯と被害女児というレッテルを貼られてしまったふたりは
社会の中では生きづらいかも知れない。
それでも、ふたりにとって自分らしくいられる場所を見つけたことは真実なのだから。
まとめ
この作品を読んで、
【人は居心地のいい場所を選んで生きる】その重要性をあらためて学びました。
たとえそれが世間一般の常識とは少し外れていても、
自分の人生は自分で決めるのだ、と。
ただ、その思いが独りよがりになってはいけなくて、
世間の風潮に折り合いをつけることも必要だと同時に感じたのです。
更紗と文が定住できず安住の地を求めて旅するように生きていくように、
自分の価値観をひとに押し付けたりせず、
分かってほしいと声を荒げたりせずに、
大きな社会のなかで歪な形のままで生きていく。
それが、自分らしく生きることなのかもしれない、と気づいたのでした。
他にも、2021年の本屋大賞ノミネート作を読んでいます。
それぞれ個性的な作品ばかり。
なんとなく、「幼児虐待」のテーマが多い傾向にあるなぁと思うこの頃です。